俺が夕焼けだった頃

通ってた進学塾の非常階段からは、横浜駅を出て行く列車の姿を雑居ビルの隙間からわずかに望むことができました。ある時、晩飯の休憩時間が夕方の流星群といい具合に重なることに気が付いてからというものは、多少寒いぐらいなら構わずそこで時間をつぶすようになったものでした。トイレからも見えたから、小便してる間にブルトレが見えたら何かいいことがあるなんてことも半ば信じてたり。
日本鉄道映画の金字塔「大いなる旅路」のラストシーンよろしく14両もの客車が悠然と引き出されて行く様は、斯様に好奇心と感受性の塊だった少年の心の琴線を鷲掴みにしていたのであります。

・・・繁華街のど真ん中でそこら中に日活封切館のポスターが林立してたし、ロクな立地じゃなかったな。>N能研横浜校
おかげで通うのはとても楽しかったけど。わっかるかなぁ、わっかんねぇだろうなあ :hammer:

日活のことはともかく、いい加減に日が暮れて、シルエットからあれは特急電車改造のサロだとか「さくら」だ「富士」だと、いろいろに妄想を繰り広げて受験勉強どころじゃなかったのが今更ながらに思い出されます。あの頃は「あさかぜ」なんか3往復もあったんだ。

それが、食堂車の低迷を打破しようとバブルの勢いに乗って「ゴージャス」にしてみたら場末のキャバレーみたいになって止めを刺しちゃったり、もとから影の薄かった「みずほ」がいつの間にかなくなってたりナニだったりで、やっとこさ自前で乗れるようになった頃には当時思い描いていたような「寝台列車天国」など今は昔の夢物語になっていたのでした。CNのやつをパクったようにしか見えないJRロゴがそこらじゅうにベタベタ貼ってあるのも屈辱的だったし。それ以上に誇り高いJNRマークが毟り取られていく様は見るに耐えなかった。
一時期鉄道趣味から離れたのもむべなるかな。

手元には当時よくあったハガキサイズのデータカードが今でもとってあります。
「いなば・紀伊」や「北星」「新星」「天の川」なんか、無計画に土曜の晩に乗って出かけても、昼の特急で帰れば日曜の晩には帰って来れたんだなァ・・・などと死んだ子の歳を数える毎日。「富士」「はやぶさ」の終着駅に着く前に翌日の便が始発駅を出てる壮大さなんか、今想っても眩暈がするほどの感動を覚えますね。そりゃ単に気が遠くなってるだけか? :hammer:

みんな新幹線が悪いんだけど、新幹線がなかったらとうの昔に日本から長距離列車は消えていただろう事を思うととても複雑。

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