「露出狂時代」または一億総ブログ時代の「点と線」

ブログというかweb上の公開日記みたいなものが普及したおかげで、多くの人がhtmlのタグなんか全く意識しなくてもそれなりに見栄えする文書を世に公開できるようになりました。読み手としてもごく簡単に本屋や図書館の枠を越えて、文字通り無数の文書に直接触れられるようになりました。
昔から自費出版のシステムはあったし、そこまで行かなくても同人誌とか個人が著したものを世に出す方法はありましたが、そういったものにわざわざ身銭を切ってくれる人は全体から見ればごく一握りの物好きに過ぎなかったし、送り出す方もそれなりのリスクとコストを覚悟しなけりゃならなかったわけで。そういった観点から、少なくとも金銭と労力絡みの問題からは解放され得る状態で著作を世に送り出せるようになったのは良いことなんじゃないかと思っています。

裏を返せば、誰でも何でも送り出せる状態ってのは、それまでは何かの形でふるいにかけられて残ったものだけが世に出る事を許されたものが、何のフィルタもかからず、即ち質の良否どころか正誤の検証すら為されないまま垂れ流され得る状態でもあるわけです。別に自分が思いついた事じゃなくて、webが始まった頃からさんざん指摘されてますけどね。
どうも、「鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町」に挙げられた例にも見られる通り、少なくとも日本人という人種は活字化されてるとそれが即正しいものと思い込んでしまう傾向があるようで、某所なんかの論争を傍観してても双方それぞれが「最初に見た資料」を典拠に相手を批判していて、それ自体は良いにしても典拠になってるものが二次資料三次資料、酷い時はさらにその孫引きだったりして、そもそも議論の意味を喪失してる事も珍しくない。

結局、書いた事の正当性に気を付けてくれてるように願うと同時に自らも書くことの正しさに気を遣うよりないわけで。何かを期待して読むなら注意深く行間を読んでいく必要もあるんですが、そこで困るのが「!」や「…」を濫用した記事。
「!」は大方の想像どおり「○○に物申す」タイプのブログに多くて、強調したい意図はわかるんだけど使い過ぎでは何を強調したいのかすらわかりません。
回想(うちだと国鉄関係が多いか)に多いのが「…」、これも余韻を引っ張りたいのは理解できるけど濫用されると文章全体がぼかされすぎて結局何が言いたいのか全く判らない。ぼかすのは効果としてアリだろうけど、主題すらぼかしてしまうのはまずいでしょう。
回想以外に「…」を多用するのは上の「物申す」の記事、ただこの場合は「イエスかノーか」までぼかしちゃって論点を逸脱し易いから、回想シーンも含めて「…」を記事に使うのは望ましくないなと、自分では考えています。

あと嫌いなのは「思う」って表現、これ昔は自分も愛用してたんだけど神奈川11区の某長期政権の当時の首班が矢鱈めったら乱発してるのを見て、すっかり使わなくなりました。この国でそれをやったらどうなるか半世紀も前に結果が出てるのに、フィーリングで国を動かすなと。フィーリングで動かすのが許されるのは自分とこの家族かせいぜい組事務所まで、一億の国民を背負った指導者に許される言動じゃないと思うのです。
個人が思うのは構わないけど、表に出す時は「思う」ことと「考える」ことは区別して欲しいなと、これは読む時に思うだけではなく、書く時にも普段から考えている事でもあります。

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